福田君を殺して何になる
増田美智子著『福田君を殺して何になる 光市母子殺害事件の陥穽』(インシデンツ)
差し戻し控訴審で死刑判決を受けた被告(現在上告中)にとって、本書は決して不利益になるものではない。その意味は被告弁護団側が最も分っているハズではないのか。
(東京アウトローズhttp://outlaws.livedoor.biz/archives/2009-10.html#20091015)
確かにそうだな。弁護団が差し止め請求することは被告人の利益にならないことをしていることになる。
増田美智子著『福田君を殺して何になる 光市母子殺害事件の陥穽』(インシデンツ)
差し戻し控訴審で死刑判決を受けた被告(現在上告中)にとって、本書は決して不利益になるものではない。その意味は被告弁護団側が最も分っているハズではないのか。
(東京アウトローズhttp://outlaws.livedoor.biz/archives/2009-10.html#20091015)
確かにそうだな。弁護団が差し止め請求することは被告人の利益にならないことをしていることになる。
文藝春秋では日本の財政状況を家計に例えた
『父親の年収(税収)は460万円、配当や貯金の取り崩し(その他収入)90万円を繰り入れ、さらに330万円を借金し、合計880万円になった。家計の4割近くを借金で賄うだけでなく、過去の借金残高が5500万円、利子の支払いだけで200万が消える』
・・・ただ、5000万円のほとんどがジジババが一人息子である父親に貸したもので、この父親は利子を生活費の一部としてジジババに年間200万円渡している。・・・この例え話を付け足すと、逆に危機感がなくなってしまうかも。
付け加えた例え話の難点は、いずれ息子への債権を当の息子が相続することになるということだが
まあ、デフォルトはありえないということの例証にはなるかと。
「東日流外三郡誌」をご存知ですか。
『偽書「東日流外三郡誌」事件』斉藤光正 新人物往来社刊を読売新聞2月11日朝刊「よみうり堂本」で紹介しています。
こういうタイプの本を安易に紹介してはいけないという見本です。
最初に断っておきますが
私はこの「東日流外三郡誌」が偽書であるかどうかの判断は保留しています。
問題はこの著者たちがなぜ偽書であると明確に言えたのかという理由にあります。
この紹介文にもある
「”発見者”による偽造と判明している」 ということは ないということなのです。
数ある偽書といわれているものの中で
偽書であることをを証明するために特定の「偽造者」の存在を持ち出したケースは空前絶後ですが
偽書論者の訴えにより裁判にまでなっていて、
「”発見者”による偽造とは判明しない」という判決が出ているのです。
それはそうです。裁判官が歴史論争の判断をできるわけが、するわけがないのですから。
実は裁判まで起こした面々には別の理由があると思われるのですが。
文芸部の新聞記者やデスクに民事裁判のチェックまでの周到さを望むのは、ないものねだりでしょうから
読売新聞?のうそ・・・という表題にしました。
新刊です。全く説明の必要のない題名ですね。2005年02月03日発売
神戸酒鬼薔薇事件にこだわる理由 「A少年」は本当に犯人か
後藤 昌次郎●著
版元● 現代人文社
四六判 224ページ 上製
定価1,700円+税
ISBN4-87798-239-6
まえがきより
はじめに
――何が問題か
神戸酒鬼薔薇事件の「犯人」とされるA少年が医療少年院を仮退院したと、マスコミが大々的に報道した。更に最近では、「酒鬼薔薇は治っていない!『再犯の恐れなし』との判断は時期尚早だった、性的サディズムは完治したわけではなかった」、とのセンセイショナルな報道がなされている。犯行の凶悪・異常、社会に与えた衝撃、被害者の遺族の悲しみの深さ、そして犯人がA少年に間違いないとすれば、このような報道もおかしくないだろう。
問題はその前提と内容である。A少年は本当に「犯人」か。A少年を「犯人」とする合理的根拠があるか。
真実は証拠によって決まるのであって、多数決によって決まるのではない。警察も、検察も、裁判官も、弁護(付添人)団も、マスコミも、世論も、こぞって、A少年が「犯人」だといっても、それを裏付ける合理的な証拠がなければ、犯人ではない者は「犯人」でない、と、あたりまえのことをあたりまえにいわなければならない。
A少年を「犯人」と信じて疑わない人々に、「どんな証拠があるのですか」ときいたらどう答えるだろう。「本人の自白がある」と答えるだろう。しかし、その自白は、A少年が、「犯人はお前に間違いないという証拠がある」と警察に騙されて言わされたものなのである。しかもA少年は検察の取調べが終わるまで、騙されっぱなしのまま自白調書を作られていたのだ。このようにして作られた自白は、内容も不自然、不合理で、矛盾だらけ、臨場感も、裏付けの客観的証拠もなく、とても信用できるようなものでない。検討すればするほど、自白はクロの証拠でなくシロの証拠であることがわかる。警察も、検察も、裁判官も、残念なことに弁護団も、その検討を怠っていた。
A少年を「犯人」とするに足りる客観的証拠を知っていますか、ときかれて、具体的に挙げることのできる人があるだろうか。当時の担当裁判官も弁護人(付添人)も、無い、といっている。自白を裏付ける客観的証拠もなく、自白から独立してA少年を「犯人」とするに足りる客観的証拠もない。A少年の身体や衣服、自宅や自室、A少年が「犯行」に使用したとされる凶器から被害者の血痕が検出された事実はない。真犯人と結びつく証拠はあるが、A少年と結びつく証拠はないのである。
「犯行」の衝動として「性的サディズム」を指摘し、またA少年を「直観像素質者」とした精神鑑定は、A少年を「犯人」と前提した説明であって、学問的方法による犯人解明の結論ではない。精神鑑定人は、シロかクロか白紙の状態で鑑定を求められたのでなく、クロの状態での鑑定を求められたのである。しかもA少年が取調べの段階で騙されて自白した事実を告知されず、A少年がそれによって重大な精神的打撃を受けたという重大な事実を不問にして鑑定しているのである。これでは正しい精神鑑定ができるわけがない。
A少年の作成とされる真犯人作成の「挑戦状」(巻末資料2)や「懲役十三年」(巻末資料3)という文書は、文章そのものの知的レベルという一点だけで、A少年の「犯行」を証明するどころか、無実を証明するものである。
結局、A少年を「犯人」と認める合理的証拠は何もない。人々は、証拠によってではなく、A少年が自白したということ、逮捕されたということ、審判で有罪を前提とする決定が出されたということ、これに対して弁護団が抗告しなかったということ、マスコミがこぞってA少年を「犯人」と報道していることによって、A少年を「犯人」と信じて疑わないのである。事件に対する懐疑的精神ではなくて人間に対する猜疑心、権力と権威に対する批判的精神の欠如がその根底にある。
犯行が凶悪・異常であればあるほど、事実認定は厳正でなければならない。確実な証拠と道理に基づかなければならない。無実の人間にその責を負わせるようなことがあってはならない。本人とその家族の一生を台なしにするだけでなく、被害者・遺族の方々の無念と悲しみを空しくするだけである。そのようなことがあってはならない、と思う。
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